diamondwaterの観劇日記

舞台、映画、展覧会、各種イベントに参加した記録、感想などをまとめています。

2012年9月 観劇日記

すっかり秋ですね。台風シーズンがくると思い出す、2011年9月3日。忘れもしない…超強力な台風が接近するなか欠航ギリギリ回避の飛行機に乗ってムラまで遠征した挙句にムラ版「仮面の男」を観た日です(初日あけてすぐの土曜日11時公演)。私自身はムラ版「仮面の男」について、「すっごい変だけど、すっごい面白い!」とウキウキした記憶しかないのですが、一般的には非常に悪い評判で――幕間のあの何ともいえない空気感、外で通過中の超強力台風にも負けないぐらいの強さで劇場内に渦を巻く負のエネルギー……身体に刻み込まれて忘れられません。結局は東上時に大幅に演出が変更となり、販売DVDもいつもは大劇場収録映像なのに東宝収録映像となり、最終的には「歌劇」で理事長が謝罪する事態に発展。ムラ版「仮面の男」は幻となってしまいました(スカステでも、ムラ版は封印されると思ってますがどうなることやら)。私にとって、あの日は、みんなが嫌いだというものを好きというのは勇気がいることなんだと気付いた日でもありました。いやあ…ほんといろんな、いろいろいろいろいろいろな意味で忘れられん!

という2011年9月でした。今年の9月は平穏です。


9月15日 星組全国ツアー「琥珀色の雨にぬれて/セレブリティ」(四日市市民会館)
9月16日 宙組銀河英雄伝説@TAKARAZUKA」(宝塚大劇場
9月16日 星組特別公演「ジャン・ルイ・ファージョン」(宝塚バウホール
9月23日 花組サン=テグジュペリ/コンガ!!」(東京宝塚劇場
9月29日 星組特別公演「ジャン・ルイ・ファージョン」(日本青年館
9月30日 蘭寿とむお茶会


以下、ちょっとした感想をいくつか。


星全ツ「琥珀/セレブリティ」。ねねちゃんのシャロンに感動した公演でした。マヌカンという職業が何故生まれたのかを一目で納得させる、その美しさ!その押し出しの強さ!男役10年というけれど、娘役だって娘役10年なんだと改めて強く思わせてくれたシャロンでした。美貌だけを武器に虚飾にまみれた社交界で成り上がっていく、一見たおやかだけれども強い女。そんな女が、ウブで素朴なクロードに惹かれるというのは必然という感じで胸キュンしました。騙したり騙されたり利用したり利用されたりする世界で、ありのままに本音をさらけ出して平然としてる男と出逢ったとき、きっとシャロンの心に爽やかな風が吹いたのよね?(ろまんてぃっくとまらない)でもシャロンとクロードでは住む違いが所詮違う。クロードのような男には同じ世界に属する似合いの女というのが必ず、いる。大抵、いる!美貌を武器に成り上がったシャロンですから、「武器がなくともみんなに認められた居場所がある可愛い女」であるフランソワーズはそりゃあもう癪に障ったことでしょうよ。ホテルでの第一次対決場面、興奮したわぁ!世慣れたシャロンがフランソワーズを痛めつけることなんて、赤子の手を捻るように簡単なことだったはず。攻撃は最大の防御。\ オーフェンスッ!オーフェンスッ! / でもクロードが自分ではなくフランソワーズを追っていったとき、シャロンのなかで何かが崩れたんだろうなあ。勝ったところで何だ、と。一人で自立する女と、自立しなくとも誰かが守ってくれる女の、永遠の対峙。

柴田先生脚本の素晴らしいところは、女の描き方に機微があるところ。登場人物たちをキャラクターではなく人間として描いているところ。柴田先生がどういう風に物語を紡いでいっているのか前々から興味があったのだけど、本公演パンフに掲載されていた挨拶文にそのヒントが隠れていて「なるほど」と膝を打った。以下、引用。

戦争帰りのクロードと、パリに一人生きるために画家のモデルなどをしているヒロイン、シャロンとの出会いを作った。そして主人公の青年と対照の位置にシャロンと同様、背徳の世界にいる若者ルイを登場させ、またシャロンの対極に、まっとうな貴族の令嬢フランソワーズを置いて四つのポジションを決めた。このカルテットが織りなす人間模様、ドラマの図式としては古典的と言えるもので――メリメの「カルメン」、ドストエフスキーの「白痴」、トルストイの「アンナ・カレーニナ」などいくつも挙げられる――この図式を20世紀初頭のカラフルなパリに置いてみて、当時の風俗とマッチさせるとどうなるか、これがこの作品を創る動機であった。
(パンフレット「作者のメモワール」柴田侑宏より抜粋)

人間を描くということは、キャラクターをつくることではなくて、関係性を描くことなのだね。非常に不遜な物言いをして恐縮なのだが、小柳先生は劇作をするときにまずキャラクターづくりから始めているのではなかろうか? 小柳先生の作品は大好きなので、変な物言いをしたくないのだけれど、根拠なくそう思った。でも己の作風を極めることこそが創作の道だと思うし、キャラクター先行の物語づくりでも到達できる極みはあると思うので(漫画とか、そうだよね)、今後も小柳先生に期待し続けたいと思います。

で、話は戻りますが。一人で自立する女だって、崩れることはある。そこにスッと入ってきたのがルイだったと。ルイはシャロンにとって同じ立場の似たような男、という位置づけだったのかな。同属嫌悪なのか、仲間と思っていたのか…いずれにせよそれまでルイには一切なびかなかったくせに、あっさりと出奔しちゃったところが、シャロンの弱い一面を感じさせてぐっときました。一方いまいちピンとこなかったのがルイのほう。結構よい位置までのぼってきていたダンサーだったのに、それを捨ててシャロンと出奔してしまうほどのシャロンへの熱い?昏い?情熱を十輝ルイには感じなかったので…。「え?ルイったらシャロンのことそこまで好きだったのー!?」とびっくりしてしまいましたよ。いや、好きだからクロードと一緒に青い列車に乗ってホテルまで来たんでしょうけど、なんとなく、クロードに乗せられて気軽に付き合ったのかな〜みたいに思っていたので。ま、いいけど。それにしても、そこまで自分のことを好きというルイと別れてパリに舞い戻ってきたシャロンはどういう気持ちだったのかなあ。クロードとの再会を予感したりしていたのかしら?すっかり立ち直っていたけれど、再会したらやっぱりぐらっときてしまったのかしら?クロードもねえ、全然思い切れてなかったってのがねえ、酷いよねえ。フランソワーズは私は好きなタイプじゃありませんけどね、フランソワーズに思わず同情したわ。でもフランソワーズも覚悟がないよ。結婚前にあんな一悶着があったんだから、「どんなことがあっても妻は私!」ぐらいの堂々たる態度でいればよかったのに。とか、何でしょう私、噂好きのかしましい御婦人のようですわよ、おほほほほほほほほほほ!

で、マジョレ湖へさあ旅立とうという直前に駅で勃発する第二次対決。フランソワーズが「私がここにいるのに私を通りこして会話しないで」みたいなことを言うじゃないですか。そのとき私、「ほんとフランソワーズって自分が主人公の人生しか生きてこなかったんだな」と心の底から「ケッ!」と思ってしまいましたスミマセン。自分が自分の人生の主人公なのは当然として、他人の人生のヒロイン・ヒーローになれるかはそれはもう自分の魅力次第だし、大抵の人たちは自分を人生のヒロイン・ヒーローに据えてくれる人を一人か二人見つけられればめっけものってレベルだと思うんです。多くの人が自分の母親を好きなのは、母親が無条件で子供を人生の中心に据えるからでしょう。フランソワーズは姉や兄から下に置かない扱いを受けているし、恐らく両親からも重要な人間として扱われてきて、当然クロードにもそのような扱いを受けて当然と思ってる幸せなお嬢様なのだね。うわ!何私のこの嫌味な物言い!いやーほんと私って性格悪いな。別に自己嫌悪はしないけど、素直にそう思う。それに対して、シャロンのフランソワーズを歯牙にもかけない態度!胸がスッとしたとか言ったら、ますます私の性格の悪さがバレますでしょうか。えへへ。ということは置いておいて。どんなにシャロンが強く生きてきたといっても、いちいちフランソワーズのような女性を相手にしていたら神経がもたないはず。フランソワーズだって、そう。違う世界に生きている女2人は、お互いに永遠に交わらない世界にいたほうが幸せなのだ……。だからシャロンがスパッとクロードとの別れを決めたのが、凄く理解できた。そうそう、シャロン、涙なんて後から流せばいい。そこはかっこよく立ち去ってこそ、貴女よ…。その後、シャロンがマジョレ湖に一人ではなく取り巻きを連れて行っていたのが印象的でした。一人で行ったクロードは思い出を思い出として残すために、取り巻きを連れていったシャロンは思い出を断ち切るためにマジョレ湖に行ったのね。嗚呼シャロンシャロン。可愛い女。きっと貴女には貴女らしい人生の結末が待っている。それを不幸とか幸福とか他人はかしましく言うだろうけれど、そんなのは他人が決めることでなく自分が決めることなのだ…。柴田先生は優しいね。

琥珀色の雨にぬれて」を生で観たのはこれが初めて。オサさんを追う過程で代役本公演映像を見たことがあって(蘭寿とむがルイを演じる花全ツ版は未見)、映像でも充分感動したものですが。「アルジェの男」といい「小さな花がひらいた」といい、色褪せない作品ってあるんだなぁと改めて思いました。本公演でとはいわないから、全ツなどでこれからも時たま再演してくれると嬉しいね。




次に、宙組銀河英雄伝説@TAKARAZUKA」。一切予習をせずに挑みました。そもそもこれだけ有名な小説をこれまでスルーしてきたってことは興味が湧かなかったってことで(アニメの再放送とかもたびたびやっていたのに見る気にならなかった)、予習しようと頑張っても無駄に終わるなと考えたためです。なので話についていけるか不安だったんですけど、杞憂だった!さっすが小池せんせ!!商業演劇って、予習しなきゃ分からないとか、前提条件を教養として知ってて当たり前みたいなスノッブな態度を観客に求めるものじゃないと思ってたので、こうして予備知識ゼロでも充分楽しめるものをつくれるっていうのを証明されると胸がすく思いです。例えば「スリル・ミー」だってニーチェに傾倒する人物が出てきて散々その思想を引用するけど、別にニーチェを知らなくても内容が理解できるつくりになってたからね。その作品を気に入ってより深く知りたいとなった段で初めて調べ始めればいいんだよ。鑑賞には3段階あって、まずは予備知識なしに自分の感性のまま楽しむ、次にその作品がつくられた時代や背景を紐解き作品ができあがった過程を知り作者の意図をより性格に把握する、そのうえでこの作品はどのような意味や意義があるのかを問う(歴史上の位置づけ等をメインに問うのであれば史学、美しさとはを問うのであれば美学。是非を問うのは…それは政治・哲学・倫理の範疇だと思っています。芸術・美術にそういったことを持ち込みたければ持ち込めばいいけど、私は持ち込みたくない派)、と、私は習った。だから第1段階が成り立たないような、予備知識がないと内容が理解できないような作品について、私は懐疑的なのです。

と、話が逸れましたね。。。まあとにかく分かりやすかった。登場人物たちが次々と紹介されて、銀河の情勢が説明されて、ラインハルト―アンネローゼ―キルヒアイスの幼少期の物語が頭に入ってくれば、後は「流れに身を任せておけばよし」の、原作を知らずとも楽しめる演目。登場人物たちの名前すらウロオボエでまーったく無知なまま観たけど、誰がどういう性格の人なのか舞台を観ただけで伝わってきた。繊細につくりこまれたビジュアルにも表れてたし、ちょっとしたエピソードで充分想像できた。話がつながっていて、登場人物たちの発言や人物像が一貫していて矛盾がないというだけで、こうもノーストレスで作品鑑賞できるんだと目から鱗でございました(いや、本来はそれが当たり前なんでしょうけどね、そうじゃない作品にぶちあたったことがあるから…)。

とはいえ、そもそも私は銀河諸国の興亡にまったく興味がなかったので、はじめは「華やかだな〜派手だな〜綺麗だな〜」で物語が流れていってしまった感じ。私は「三国志」好きなので国同士の興亡には興味があるはずなんだけど、なにぶん@TAKARAZUKAな銀英伝で描かれる興亡史は複雑さに欠けるというか、先行きの見通しがたちすぎるというか、悪役が単純に悪役するぎるというか…まあそれは仕方ないよね、舞台には尺の問題があるし。これはむしろ演出の美点かも。そんなわけで平坦な気持ちのまま一幕が終了したのですが。二幕に入ってラインハルト―アンネローゼ―キルヒアイスの物語が動き出した瞬間に突然感情がぐらぐら揺れ始めて心が前のめりになりました。き、きたこれ!イイッ、イイよ、この3人!!!ラインハルトの、そしてキルヒアイスの、幼馴染みと心が離れていくような不安、寂しさ、孤独…。キルヒアイスとアンネローゼの間に恋愛感情のようなものがあるわけがないと断言するラインハルトの複雑な気持ち。それでも、キルヒアイスの死後、アンネローゼにキルヒアイスを愛していたかとラインハルトが問うじゃないですか。それに対して黙って去るアンネローゼ。結果的に、アンネローゼもキルヒアイスも、どちらも深く愛してるのにある意味どちらとも離れていってしまったラインハルトの孤独…。……ヒトって、いつまでも子供でいられないのが哀しいですね。。。一人一人の純粋な気持ちよりも、おのおのの置かれた立場ってものが大きくなっていってしまうし、他人の思惑が絡んでくるし、そして単なる愛情だけではとどまらない恋愛感情というものも生まれるし。割と時間を割いて表現される3人の幼少期――苦労も多かったけど懐かしい懐かしい原風景――との対比が何とも切なかったです。しかし、そんな諸々の哀しさも振り切って、立ち上がるラスト。「ラインハルト、ここに立つ」って感じで大変素晴らしかったです。トップお披目公演にふさわしいラストでしたね。まさに「宙組の新章、ここに始まる!」という感じ。

でもちょっと引っかかる点も…。正直、ラストにヒルダがいないほうがラインハルトの何たるかがもっと伝わったんじゃないかなぁ?と思ったりもしました。というか、ヒルダというキャラクターがいまいち掴めなかった。。。ヒルダの台詞で「女性を登用しなかった国は滅びた」みたいなのがあるじゃないですか。ヒルダがあの台詞を言った瞬間、私のすぐ後ろの席で観劇していた男性が「ふっ」と笑ったんですよ。失礼だとは思ったけど、笑った気持ち、正直分かってしまったというか…。なんだか子供っぽい台詞ですよね。「もののけ姫」でアシタカが「女性が元気な村は良い村だ」みたいなことを言うじゃないですか。あのリアルさに引き比べ、なんというかかんというか…。頭でっかちの女の子がいかにもいいそうな台詞。そういうイメージをヒルダにつけるためわざと言わせた台詞なのかな?そのせいもあって、ヒルダが将来的にラインハルトの右腕になるとはこれっぽっちも思えず。。。「これは原作通りなのだろうか」と悶々としてたところで、原作ファンの方に教えてもらったんですけど、本来原作ではこの時点でヒルダはまだ出てこないんですってね。さもありなん、さもありなん…!ま、でもそんな拘るところじゃないか。本作は男1のお披露目でもあり、娘1のお披露目でもあるわけですから、こういう話の持っていき方をしないといけなかったんだろうな、と納得しております。

さて、ここまで長々とラインハルトのことを書いておいてなんですが、私の心を奪っていったのはラインハルトでもキルヒアイスでもロイエンタールでもなく。結論として、ヤンでした!!!!!「ちょキタロウこの役をやるために男役になったんじゃね!?」てレベル。トボけた感じなのに誰よりも信念があり強い、けど力が抜けてて自然体。キタロウ…まさに地でいってたよ。かっこいいかっこいいかっこいい!!!あのヤンがカッとしたり、我を一瞬失ってしまうような恋に墜ちてくれたりしたら、私、悶え死ぬ自信がある。そういうエピソードくださいください!わんわん!!序章感が半端なかった本作ですから、ここからがんがんスピンオフ公演を上演していってほしいな、歌劇団様!




最後に星組特別公演「ジャン・ルイ・ファージョン」。燻し銀な作品でありました〜。なぜなら主人公とヒロインが恋愛しないから(笑)。そのせいか、いろいろすっきりしないところもあったりして、でもそこらへんは、芸術家にとってのミューズが必ずしも恋愛対象になるとは限らないということで諸々を納得。そんなこの作品を一言でまとめるなら、香りで表現する芸術家の青春と信念の物語、でした。地味な作品ながら佳品といえるのでは。感動しました。

階級制度からの自由を夢みる父親の影響で自由・平等・博愛という革命思想に共鳴しつつ、でも同時にまだまだ絶対王政の時代のなかに育ったので王家への尊敬の念を持ち、なかでも隣国から嫁いできた麗しの皇女には素直な憧憬を抱いていた、ジャン・ルイ・ファージョンの青春。華やかな時代を背景に香りの表現を追及し続けた幸福な青春が、革命勃発とともに暗く翳っていくのが哀しかった。特に、人払いをした居間の暖炉の前で王妃からの注文書を一枚一枚見返していくシーン。すぎさっていった青春を遠く見つめる老い始めた男の哀しさ、切なさが迫ってきて思わず涙してしまいました。もう生魚でもない、でも干し魚でもない、まるでうるめいわしのような中途半端な30代の自分としては「他人事じゃねぇ!」って感じでしたよ。ヒト一人の人生の傾きと、翳りゆく時代を重ね合わせた景子せんせ、うまいわぁ。もし、もしも。もうちょっと早くフェルゼン伯がジャン・ルイ・ファージョンを訪ねていたら、もしかしたら彼は王妃救出計画に加担したのかもしれない。でも彼の青春はもう終わり、情熱のまま動く人間では既になくなっていたのだよね。タイミングってある。それでも捨てられないもの、曲げられないものとして残ったのが、信念だったのかな、と。「人と人として向き合った結果なんだ」と訴える彼の叫びは胸に刺さったわ…。弁護士役を演じた美城さんの名演とあいまって、ここでも泣いてしまった。

後、もうひとつ。王妃とフェルゼン伯とルイ16世の三角関係がとても丁寧に描かれていたのが印象的でした。なぜルイ16世は逃亡計画実施途中にフェルゼン伯を外したのか。ルイ16世の生々しい声を聞いたような気分です。逃亡が成功した果てに王妃とフェルゼン伯の愛が生き延びるぐらいならば、自分とともに王妃が逃亡に失敗することを望んだ、ということなのでしょうか。これもまた愛、ですね…。ルイ16世の気持ちもめっちゃよく分かるわ。。。い〜〜〜〜やぁ〜〜〜〜〜…、ほんと「ベルサイユのばら」ってよくできてますよね!(結論そこ?)(そこ)


では以上、9月観劇日記でした!

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