diamondwaterの観劇日記

舞台、映画、展覧会、各種イベントに参加した記録、感想などをまとめています。

2012年1〜3月 宝塚歌劇団花組「復活」

風邪→仕事→熱→仕事な日々を過ごしているうちに千秋楽もとおに過ぎた花組「復活」。今更ですが、感想をこっそりアップ。

初見、2回目あたりまで号泣。その後も、観る度にいちいち涙目になるほど本当に心に響いた作品でした。「腐ってもトルストイ」といいますか、文豪と言われる人の作品はやはり力があるよね。石田せんせ特有の、男の美学がどうの、男の友情がどうのという歌詞とか、芝居→歌→銀橋→芝居→歌→銀ky(略)という単調な演出とかがなければ名作認定したいところ。最近は映画や漫画が原案の舞台が続いているけど、映画や漫画よりも文学のほうが舞台化に向いているコンテンツだと思う。
 
 
【それは愛か償いか】
さて作品内容ですが。作品のキャッチコピーが「カチューシャへの想い、それは愛か、償いか――。」なんですね。


とっても分かりやすくこの作品の主題を提示してくれていて、いいキャッチコピー。舞台を観て必ず考えるのは、確かにそこだ! で、何度も観に通ってぐるぐる考えた個人的結論は、ネフリュードフの行動は「償い」だった、です(あくまで原作抜きに舞台を観ての感想です、念のため)。姉・ナターシャが指摘している通り「自分の魂を救済したいだけ」の行動だったのではないかと。
だって、乱暴にまとめてしまうと、ネフリュードフって、知らずに犯してしまった自分の罪に慄き、またその重さに耐えかねて、肩の荷をおろしたいばかりに突っ走る貴族のお坊ちゃん、のように見えるんですよ。まず自分の罪に気付くのが遅い!少しはカチューシャのことを気にかけていれば、もっと早く気付くよ普通。でもカチューシャのことはあくまで恋の火遊びであって、休暇の一場面でしかなかったんだよね? ほんとびっくりするほど貴族だわ。そしてやっと罪に気付いたかと思えば、彼は自分の罪にばかり気を取られてカチューシャのことを見ていないように感じる。何といっても、カチューシャに結婚を申し込むというのが、一番独りよがりに感じるポイントです。誰が望んだよ、そんなこと。カチューシャが「じゃあ、結婚してくれよ」と言ったというなら納得だけど、単にネフリュードフが勝手に決めて勝手に突っ走ってるだけ。カチューシャが置かれている状況は確かに過酷だけど、カチューシャにはカチューシャの人生があるということに気付いていない。本当に現在のカチューシャに愛があるっていうんなら、カチューシャの「あたい、お酒はやめたから」という告白に、もっと深く答えてあげるよね…(ここ、切ないよね。カチューシャがネフリュードフに心を開いた瞬間な気がする)。
というわけで、ネフリュードフの一連の行動は愛ではなく償いで、「復活」とは、ネフリュードフの償いのあり方と、償いを通した彼の成長を描いているのではないか、と感じるのです。それでもネフリュードフの行動が償いだけではない何かを感じさせるのは、演じた蘭寿とむの特性なのかもと思ったりします。
 
 
【償いのなかに、愛もあった…?】
当初のネフリュードフは、育ちのいい貴族のお坊ちゃんならではの“傲慢さ”が顕著な人、という印象です。カチューシャが置かれている状況を「不幸」だと臆面もなく本人に向かって言い放ち、さらにはそれについて謝り許しを乞う――。なんと傲慢な、ですよ。「謝るなっ!謝るのはガキだけだぜ」とはマキューシオの弁だけど、ほんとそう思う。謝るって時に傲慢な行為になりうる。こんなんじゃ、カチューシャの魂の真の解放は、ネフリュードフと居る限り、ないよね。
でもどんなに傲慢でも、なりふり構わず捨て身で謝り続ける態度を示せる人はなかなかいないわけで、やっぱりネフリュードフは、優しくて誠実で真面目な“イイ男”なことは確かなのだと思う。ネフリュードフの捨て身の誠実さ、優しさを感じたからこそ、カチューシャも何かを諦めて荒んでいたのが、徐々に少女時代の面影を取り戻していくのだろうし。前項で、ネフリュードフの行動は償いであって愛ではなかったと思うと書きましたが、少なくとも人としての誠実さは確実にあった、と付け加えたい。
さて、この誠実さってのが重大ポイントで、個人的に、誠実さって愛と比肩するぐらい大切なもので、誠実さのない愛なんて愛じゃないぐらいに思っています。そうなると俄然、考えがぐらぐらしてきて…彼があんなにも誠実であったのは愛もあったからなのかもしれないと思ったりして(どっちだよ)。さらに、カチューシャに去られた後のラスト付近でネフリュードフが口にする台詞「また人を愛せますように」を聞くと、ますますよく分からなくなってきます。だってこの台詞、カチューシャとのことを巡って「愛とは何だ」と考え抜いたからこそ出てくる言葉じゃないかな、と思うので…。
上記諸々を考え合わせると、ネフリュードフはラスト、自分の行動はまるで“赦し”欲しさの行動のようでカチューシャを縛っていたのではないかと気付き、でも、それに気付いてから改めて考えてみると心の奥底に愛といえるものもあって、しかしそれをうまく表現してカチューシャに伝えることができたかというと、できなかった――とか、思ったのではないかと。いや、思ってて欲しい。そうです、これは観ているこちらの願望でもある。いろんなことを知って、経験して、人生第二幕に入った彼は相当イイ男になるはず、と思いたいんだよ私は。一人の実直な青年が誰もが認めるイイ男になる成長潭と思いたい。
で、結局のところ、償いのなかに愛もあったように感じたり、ネフリュードフが一人の男として成長したように感じさせてくれたのは、脚本演出ではなく演じる蘭寿とむだったように私は思いました。熱くてまっすぐで誠実で優しくて――って、いかにも蘭寿とむのイメージじゃないですか。時に傲慢なほど育ちのいい貴族のおぼっちゃんに、人間味を与えていたのは“中の人”だったのではないかと。「復活」がヅカとして成立したのは、つまりヅカがヅカである所以は、やはりスターに負うところが多いのだなと改めて痛感します。
 
 
【もうひとつの主題――時代背景】
ところで、「復活」のもうひとつの主題って、時代背景にあるよね?
だって17〜18世紀の貴族なら、自分のせいで平民の娘が苦界に身を堕とそうとも“罪”とすら思わなかったと思うんですよ。ネフリュードフが自分の行動を“罪”と認識したところがいかにも絶対王政に綻びが出てきている19世紀末だなあ、と。カチューシャへの償いが農地開放やら政治犯の友人への手助けにつながっていくのも道理。貴族が平民のコを一人の人間として発見するには、革命前後の自由平等の発想があってこそだと思うもの。カチューシャの再発見が自由平等思想への傾倒に繋がったのか、自由平等思想がカチューシャへの贖罪として発露したのか――。卵と鶏の関係だよね。オスカルがアンドレに振り向いたのも、漫画「エマ」でウィリアムがエマと恋仲になったのも、自由平等の思想があったから、だよね??(ヨーロッパ史を本気で学んでないので、これは単なるイメージですけども)
ネフリュードフの、革命思想を齧っていても、平民たちの現実を肌身では感じていない中途半端さに言及しているのもよかった(シェンボックの「どっちが前でどっちが後ろか分かってないやつは前向きになれない」ってくだり)。時代の荒波に個人で敢然と挑んで半ば勝利したともいえるオスカルはどこまでも英雄的な架空の人物なのであって、実際のところは頑張っても頑張っても色んなことが乗り越えられずにぐちゃぐちゃにされながら生きていくネフリュードフやフェルゼン(結局、晩年は民衆弾圧に向かうでしょ、この人)のほうが当時の貴族のリアルだったんだろうなと思う。この“生うるめ感”(自由平等に覚醒したのか覚醒してないのかどっち!?状態)がちょっぴりだけだけどリアルな“時代”を感じさせて、「復活」という作品に奥行きを与えていたように思いました。ほら、運が悪いとか時代が悪いとか人は言うけれど…って歌詞、ありませんでした? まさに、それ。最後の別れの場面、シモンソンから頼まれて「亭主も許可します」って言われてるのに、ネフリュードフはカチューシャを抱きしめない。それなのに、最後の幻想的な回想場面で、ネフリュードフはぎゅっとカチューシャを抱き締める。どんなに革命に傾倒していても貴族育ちは貴族で、平民と愛を語らう言葉なんて持ってなくて――でも時代が違えば愛しあえた2人だったんじゃないのかと、そう思わせるものがこのくだりにあって……もうそう思うと涙が止まらなくてねえ。例えばもし最初の別れのとき、お金を渡す代わりにただ抱き締めることができていたら? あれは、単にネフリュードフが朴念仁だったというだけじゃなく、やっぱり貴族と平民という身分違いが原因の絶望的なスレ違いだったんじゃない? とか…。いや、原作読んでないから、あくまで私の妄想です。ふぁんたじーです、ふぁんたじー。でも私が号泣した原因はここにあるのです。
そして、この回想場面でカチューシャを抱きしめる振り付けは、蘭寿とむが提案して取り入れられたものだと聞き、ますますヅカのヅカたる所以はやha(略)
 
 
【カチューシャは再会後のネフリュードフを愛していたのか?】
それにしても「復活」って、ネフリュードフにとっては贖罪の物語、カチューシャにとっては愛の物語のように描かれているけど、複数回観るうちにそのあたりに凄い違和感が募りました。カチューシャは再会後のネフリュードフに最終的に心を開いたと思うし、人として好ましく思ってたと思うし、感謝もしたと思う。でも、男女の愛としての愛情はあったのかなぁ? 愛しているからこそネフリュードフのプロポーズは受けない、ネフリュードフを愛しているけれどシモンソンと結婚する。うーん…分かるような、分からんような…。3回目の観劇から号泣しなくなったのは、ここが引っかかったからです。実は。
個人的には、カチューシャについて以下のような心情変遷のほうがすっきりするんですよね。
ネフリュードフのことは、自分の初恋を踏みにじった男、自分が堕ちるきっかけをつくった男として憎んでいた。あの男との恋以来、あらゆることがうまくいかず、諦めと憎しみのなかでどんどん荒んでしまって、ついには無実の罪で投獄されてしまった。再会したネフリュードフには、いまさら何をしにきた、もう遅い、我が身可愛さで動いている傲慢な男、と思うだけ。でもその誠実さに接しているうちにいつしか憎しみも消え、投げやりになって荒んでいた心が解れ始めた。立ち直りたいという希望も芽生える。そんななかネフリュードフは結婚を持ち出すが、愛があってそう言ってるように思えない。自分も当時の自分とは違ってしまっていて最早ネフリュードフと結婚することが幸せなどとは安易に思えない。もうそろそろ自分もネフリュードフも、あの復活祭の恋から解放されてもいいのではないか。このまま一緒にいては永遠にあの時の誤りにお互い縛りつけられる。そんなとき、傍らにシモンソンがいて、今現在のありのままの自分を愛しているという……。
なーんてね。あくまで21世紀に生きる人間の発想なのでズレてるだろうなあとは思うし、人間の感情なんて矛盾だらけで現実はすっきりしないことのほうが多いとも思うんですけどね。
 
 
【シモンソン、運命の男】
ところで、シモンソンですよ。シモンソンッ△ ネフリュードフの友人で自由平等思想の教師。シモンソンがいて本当に良かった。いなかったら、観ていて私はネフリュードフを許せなかったと思う。シモンソンがカチューシャのありのままを愛していて、それも優しくて包容力があってついでに二枚目で文句なくイイ男だからカチューシャがシベリアに去った後、苦労はしても幸せになるであろうと信じられる。だからネフリュードフを許せるんだよ。
そういう点で、みわっちが表現してくれたシモンソンは完璧だった!!ラストの幻想的な回想シーンなんて、上手後方にただすっと立ってるだけでまるで王子様みたいだった。あれがヅカ男役の王子スキルなのね。みわっち、さすがだよ。
それにしても、シモンソンが個人的に好みすぎて……。シモンソンという男は、二枚目の優男で笑顔を絶やさず雰囲気もふんわりしてるのに芯が強い熱い男で知らず知らず荒くれ男たちからも一目置かれてたりして時に愛がおっきすぎて恋人の女性は不安になったりもするんだけど女性に淡白な単なるふんわりさんなんかじゃなくて実は意外に肉食系で喧嘩も強かったりして「もうどうしたらいいのこの王子」とかみんな笑顔で困り顔ってすみませんすみません私の妄想です願望です戯言です。
 
 
【すべては雪がつつみこむ…】
すみません取り乱しました。気を取り直して。
そんなこんな色々考え続けながら観ていた「復活」ですが、あらゆる考えは、最後の幻想的な回想シーンで降りつもる雪に埋もれて消えていってしまいます。
あそこの雪、とってもとっても綺麗よね…。ラストは、雪が降るなか抱き合うカチューシャとシモンソンを舞台に残し幕が降り、銀橋に残ったネフリュードフが「これから人生の第二幕だ」と言って花道から掃けていくのだけど、あの雪がとっても綺麗だっただけに、最後それを幕で舞台の向こうに隠してしまうのが勿体ない気がした。ネフリュードフの捌け方もやたら元気で前向きなのも気になったし。ネフリュードフには、シベリアの彼方に去っていったカチューシャの気持ちを決して忘れてほしくない。すべてはおさまるところにおさまったとしても、カチューシャとのことを片付いたこととして過去にしてしまってほしくないのよ…。まあ、こんなの単なる個人的な願望ですけれどもね。でも例えばさ。最後、舞台からネフリュードフ以外誰もいなくなって、ふと無音になり静かに雪が降る中そっとネフリュードフが雪を振り仰いで呟くように「これから人生第二幕だ…」と独り言ち舞台奥へ去って行く、幕、ってやり方もあったと思うの。そのほうが雪の夜の静けさも出ていいと思うんだけどな〜。ま、終り方をどうするかなんて、あそこまで舞台をつくりあげた演出家だけに与えられるご褒美、特権ですよね。すみませんすみませんすべては私の妄想です願望です戯言です(二度目)。「復活」は、シーンごとに観る者の妄想を炸裂させる懐の深さがあった良い舞台でしたね☆(誤魔化すな)
 
 
以上、私の感想文、もとい、妄想文でした。いい舞台だった。花組の次回本公演はサン=テグジュペリですね。また次の公演も良い舞台にしてくれると信じて期待して待ちたいと思います。

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